@article{oai:senshu-u.repo.nii.ac.jp:00000976, author = {野部, 公一}, issue = {3}, journal = {専修経済学論集}, month = {Mar}, note = {本稿は,フルシチョフ期における代表的農業政策であった処女地開拓を,言及されることが少なかったロシアの事例を中心として,かつ近年の研究動向を踏まえて,再検討する試みである。 本稿における主要な論点は,以下のとおりである。処女地開拓の決定・実施にあたっては,フルシチョフの個人的イニシアチヴに加え,西シベリアの地方党組織の指導者の積極的な関与が極めて重要な役割を果たした。また,開拓過程においては,指令・行政的方法が広範に利用されたことが確認された。処女地開拓は,1956年の史上最高の穀物収穫の達成をもって成功とみなされた。だが,開拓地区における生産・社会基盤は依然として,脆弱なままであった。このため,持続的な高収穫を達成することは困難な状態にあったが,過大な穀物調達が課せられ続け,種子用穀物の供出,虚偽の報告等が行われるようになった。また,貧弱な生産・社会基盤を反映して,収穫された穀物の質は,極めて低いものであった。 以上の事実,さらにはソ連解体により歴史評価の枠組みが変化したため,近年のロシアにおける処女地開拓に対する評価は,否定的なものが増えている。この関連で提起されるようになった典型的な見解が「処女地開拓の代わりに,ロシア中央部の農業の集約化に着手していたならば,成果はより大きなものになったはずである」というものである。だが,開拓過程で確認されたように1930年代の指令・行政的手法を広範に利用していた当時の指導者にとっては,集約化のような質的な課題の遂行は困難だったと思われる。処女地開拓は,その後に多くの解決すべき問題は残したが,その当時,唯一実行可能だった穀物不足問題の解決方法であったと考えられる。}, pages = {1--20}, title = {処女地開拓の再検討 : ロシア ; 1954~1963年}, volume = {52}, year = {2018} }